人工知能よ、はやく私の仕事を奪ってくれ。


酒の席で、将来どんな世界になるのか、という演説を聞いていた。人工知能がどうこうで、今の仕事はなくなって、理系じゃない人間は食えなくなる、というのがそのストーリーであった。


わたしはこの手の話に全く危機感を感じない。仕事しなくていいなら最高だな、と思う。仕事がなくなるならなくなればいい。

仕事がなくなることを恐れる人は多いが、「仕事をしないと生きられない」という前提を疑う人はいない。しかし世の中が大きく変わるというのなら、その前提だって本当は怪しいのである。

「豊かになる」ということは、汗水たらして必死に労働しなくとも生きられるようになることではないのか? 労働こそが人間の本分なのだろうか? 人は労働するために生きるのであろうか? 労働から解放され、ゆとりを取り戻すことの方がよほど人間らしい生活に近いように思える。

”ボタン一つ押し、ハンドルを廻すだけですむことを、一日中エイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。”
――坂口安吾「続堕落論」より

馬車の御者の仕事がなくなるから、自動車は無い方が良いという人が現代にいるだろうか? 失業者が出るから産業革命はない方が良かった、なんて言う人はひとりもいない(環境問題とかの分野では言っている人がいるかもしれないが)。

機械に奪われる仕事というのは、あとになってみれば、「そんなことをわざわざ人間が手作業でやっていたなんて信じられない。非効率、非生産的である」と思われることばかりである。

仕事には、生きがいとして人生の大部分を占める性質のものと、賃金のためのみに時間を供するものがある。これはかなり極端な例であり、実際には両方が混ざっていることが多い。人工知能が奪うのは主に後者の仕事である。何が問題だというのか。素晴らしいではないか。

後者のような仕事をする者が職を失って困窮するのが問題だと言って、すでに機械で簡単にできることをわざわざ人力で、長時間拘束してやらせることの方がよほどおかしい。さっさと機械に仕事を奪わせてしまえば良いのだ。解雇される者は、路頭に迷わない程度に国が面倒みれば良い。税金の無駄遣いとは思わぬ。これまで会社が彼らに支払っていた賃金で、何が生み出せたであろうか。同じことが機械で、もっと安く実現できるなら、どう考えたってそちらの方が良い。およそ人間的でない労働の代わりに、彼らに自由な時間を与えたなら、彼らは何を生み出すであろうか。社会全体で見れば、おそらくこちらの方がプラスであると思う。ソクラテスの時代には、仕事はみんな奴隷がやっていたから、ものを考えることが出来て、「哲学」が生まれたのである。

新しい時代に危機感を感じている人というのは、今この時代に特権を持つ人である。地位や名誉や専門性。ところがわたしには何もない。いくつかの、何の役にも立たない資格をもっているくらいで、地位名誉どころか、専門性すら一切ない。新しい時代を待つまでもなく、今の時点ですでに社会的に弱い立場なのである。

皆の不安を聞いていて気が付いた。皆、新しい時代でも上手くやろうとしているのだ。勝者になろうとしているのだ。置いていかれないように必死なのだ。

わたしが不安に思っていないのは、勝とうと思っていないからなのだった。今だって、別に上手くやっているわけではない。いわゆる「勝ち組」ではないわたしは、人から見れば、何が楽しくて生きてるんだと思われているかもしれない。しかし特に不満もない。これでじゅうぶんなのである。

今の時代に特権を持たないわたしには、これといって失うものもない。しがみつくものがない。何もないから、空っぽだから適応できるのかもしれない。

ダーウィンによれば、生き残るのは強いものではなく、適応した者である。
勝者にならなくとも良いのだ。新しい時代にも、過ごしやすい日陰はきっとある。
のし上がるのは挑戦者かもしれないが、生き残るのは臆病な奴だよ。